「直訳」と「意訳」(1)

1月15日付の『雌が雄を喰うという習性(1)』で八木沼氏が『クモの学名と和名の中で』、「ゴケグモ」とは“widow spiderの訳”と記述している、と書きました。これは、“ ”の中に入れたように、大意であって、そのままの表現ではありません。

実際には、「和名はその直訳」と表現されています。

この「直訳」という表記はあまり感心しません。これは、通常の翻訳作業の際の用語で、主に逐語訳を差しますが、一般に、「安易で稚拙な訳」というニュアンスがあります。「直訳」に対して、このことば(単語・文)が持つ文化的な背景や用法を考慮した的確な訳を「意訳」と言っています。

外国語を日本語に訳すに当たって、単語を置き変えるのは自然な作業です。逐語訳だからと言って、「直訳」と断じるのは早計です。

大分以前に、trap door spiderを「しかけとびらぐも」と訳した人がいました。「トタテグモ」という和名が定着しているのですから、こちらを使用するべきでした。また、この人はorb web(オニグモやコガネグモが作る円網)を「球形の網」と訳していました。専門外の人がクモ学者に相談せずに、いきなり科学雑誌に寄稿したのは、些か軽率でした。これなどは正に直訳と言えます。(未完)

ゴケグモ毒に対する誤解:フグ毒との混同(2)

前述の「フグ毒との混同があったのではないか」という推測は、全くの当て推量ではありません。私はそれをにおわせるコメントをもらっています。

①フグはペプチドだから、アナフラキシーショックは起きないのではないか?
②毒素を製造するバクテリアを伴わないので、日本に定着したセアカゴケグモには強い毒がないのではないか?

私の発言にこのような反応があるのは有難いことです。これを検証しましょう。
①について
フグ毒が「ペプチド」であるか、私には詳しい知識がありません。しかし、フグ毒は加熱しても不活性化しませんし、分子量が319.27と小さいので、蛋白質でないことは確かです。これに対してゴケグモ毒の分子量は13万です。
元々、フグ毒との混同から生じた疑問ですから、これといった根拠はありません。

なお、大阪府は公式サイトで、「セアカゴケグモにアナフィラキシーショックはなし」と明言しています。その根拠は、
「ゴケグモ毒を注入したマウスに抗血清を投与したところ、ショックは起きなかった」
ということのようです。
しかし、アナフィラキシーショックはアレルギー反応ですから、それが起きるか否かは検体の体質によります。当時の府立衛生研究所にアレルギー系統のマウスが準備されていたとは思えません。
これとは別に、「咬傷被害者にアナフィラキシー反応が起きた例があるが、大事には至らなかった」という情報がありました。これは単に「死亡しなかった事例があった」ということを意味します。

②について
最近、「フグ毒が底性バクテリアによって作られる」ということが広く知られるようになりました。しかし、すべての有毒動物がバクテリアに依存していることが証明されたわけではありません。
私は、ゴケグモ毒のこの方面に関する知識は持ち合わせておりません。自力で製造するかもしれないし、毒素を作る微生物と共生状態にあるのかもしれない、あるいは、日本列島に既存の微生物がセアカゴケグモに毒素を提供してた可能性もあるとしか申せません。

しかし、1996年の大阪府の毒性試験で、オーストラリアの個体と同程度の毒性が確認されたのは事実です。

そもそも、バクテリアとセットで侵入しなければ、毒素を保有できないのならば、多くの有毒な外来生物は危険性が少ないことになります。

ゴケグモ毒に対する誤解:フグ毒との混同(1)

1995年に大阪府高石市でセアカゴケグモが発見された際の報道で、世間はちょっとしたパニック状態に陥りました。「超猛毒で、咬まれたら瞬殺」と誤解した人もあったようです。
その後、大阪府による「ヒトは咬まれても死ぬことはない」と発表があり、今度は「毒グモなんか怖くない」という認識に変わりました。「心配して損した。大袈裟なデマを流した責任者、出てこい」という心境だったのでしょう。

どちらも不正確です。私としては、後者の楽観論の方に問題が多いと思っているのですが、それについては別の機会に述べるとして、今回はなぜ当初は人々が過大な恐怖を抱いたのかを考えてみましょう。

無論、「人が死ぬこともある毒」と聞けば、穏やかではおられないのが人情です。しかし、過剰反応の原因の一つに、フグ毒との混同もあったのではないでしょうか?
日本人にとって、フグ毒は最もお馴染みの自然毒ですから、反応が顕著なのは当然です。「フグ毒といえば、青酸カリの千倍近い強さだ。しばしば犯罪に使われる青酸カリ(シアン化カリウム)は時に投与後数分でヒトを死に至らしめる。フグ毒ならば秒殺ではないか」と心配するのも当然です。

ただし、考えてみれば、フグの中毒でヒトが数秒で死んだという話は聞いていません。動植物に含まれる毒素と工業的に精製されたものには濃度に大きな差があります。表面的な比較は禁物です。

ところで、ゴケグモ毒は「αラトロトキシン」、フグ毒は「テトロドトキシン」で別物です。どちらの名称もそれそれの動物の学名に由来します。「トキシン」が共通するので紛らわしいですが、これは毒素を意味する接尾辞です。

さて、ゴケグモ毒のLD5(半数致死量)は0.59、フグ毒は0.01です。LD50は数値が小さいほど、毒性が強いので、ゴケグモ毒はフグ毒にはるかに及びません。ちなみに、シアン化カリウムのLD50値は3~7ということです。(未完)